『楽園追放』(水島精二監督、虚淵玄脚本・2014)考察メモ(再掲)
この一連の感想・考察メモは2014年11月に劇場で観劇したあとにとったものです。
今回、地上波で初公開されたとのことなので、一部加筆修正して再掲します。
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『楽園追放 -Expelled from Paradise-』を観てきた感想メモをザッとまとめておきます。ネタバレを多数含みますので、未視聴の方は閲読を控えたほうがよいと思います。傑作ですので、ぜひ観てみてください。私はBlu-ray、買います。
◎この作品を見終えて、まず最初に浮かんだのは脳科学者である池谷裕二さんの「機械が人間のようになることを恐れる人は多いけれど、本当に恐れるべきは、人間が機械のようになってしまうことではないか」という言葉でした。
◎「ディーバ=楽園」は「インターネット空間」のオマージュなのですね。「そこ」では肉体の枷から解放され個人の新たな可能性が拡大するけれども、「外」とは違った周囲からの監視や評価からは拘束され続けることになると。
◎作中に登場する「ディーバ」は完全管理社会として描かれていますが、そうした社会にとって最も明確な障害となるのは「肉体」と描写されているのが興味深いです。風邪をひいたり足をくじいたり死んだり。
◎「自由とは何か」という問いが切実な響きを伴うのは、その先に「人間とは何か」、「何のために存在しているのか」があるのですね。
◎グレッグ・イーガンの『ディアスポラ』に『攻殻機動隊』と『翠星のガルガンティア』を掛け合わせたような作品でした。
◎ラストは『PSYCHO-PASS サイコパス』(第1期2012年10月11日 - 2013年3月21日)と同じ手法でしたね。
◎「人格」データの「コピー(&ペースト)」という概念が登場しなかったのが気になりました。「私」をデータ化する最大の利点であり、また「私とは何か(唯一性の喪失)」を考える重要な要素だと思うのだけど(たとえば『攻殻機動隊』のような)。尺の関係だろうか。
◎主役の二人が「フロンティアセッター」に対して「お前はもはや人間だ」と判断する要素が「好き(愛情)」、「面白い(好奇心)」、そして「仁義(互酬性)」という3つの感情を理解して実践できていることだった、というのが興味深い。人が他者を「人間である」と判断する要素は何か、という話でもあります。
◎「他者から不合理な施しを受けると、それへの不合理な返礼を施すべきだと考える(=互酬性)」。このまとめは分かりやすいなー。
◎「フロンティアセッター」という名称。
◎「ディンゴ」って、あの西部劇の…(『ジャンゴ』でした)。
◎「ジェネシスアーク号の建設に関する進行管理アプリケーションに付随する、自立最適化プログラムです」→何万回目かの自己診断アップデートのさい、「私」という概念が出現した。この「私」の創出の仕方もわかりやすくていいなー。
◎アンジェラの年齢のズレとデータ化の副作用(出生した時期で言えばアンジェラはディンゴより年上かもしれない)。
◎お尻が。
◎主人公の二人は「自分にしかできない仕事」にこだわりを見せていました。それはおそらく「仕事(使命と言い換えても良い)」が「私」とは何かを考えるキッカケとなるからではないか。少なくともアンジェラは「仕事」を通して「私」という自意識を獲得したように見えます。
◎人間とは何か、という問いを、哲学者とは違った形で、私たちに親しみやすく考え続けたのはSF作家達でした。手塚治虫、石ノ森章太郎、松本零士らは、例えば鉄腕アトムで、サイボーグ009で、銀河鉄道999で、ときには人間のような機械が、あるいは機械のような人間が、繰り返し繰り返し、人間とは何か、どこから来てどこへ行くのか、そして何よりいかにして生きるべきかを問い続けてきました。そうした意味では、この『楽園追放』という作品は、手塚や石ノ森や松本といった、偉大な先達の正統な後継者と言えるでしょう。
◎いやー面白かった。以上。